どうもYです。最近ブログ更新してなかったですね。普通にめんどくさかっただけです。
別に私、文法論を専門でやってる訳じゃないのですが、やっぱり楽しいですよね。私は特に国語学分野にいる自覚があって、渡辺→北原あたりの系譜に近い文脈の中に存在します。
急に文法論って言いはじめたので何のことか分からない人もいると思いますが、多くの場合は構文論syntaxを指すことが多いです。ただ、文法論なので、そこに何を入れるのかというのには個々の文法論によって差異があります。例えば、山田孝雄の文法論は句の成立論(言語学では節と言われるレベル)を語りますが、渡辺実は句と文の成立を問題にします。
ここで、「句」と「文」というワードを出しましたが、これらがかなり重要な差異を持ちます。文は句の運用の結果であり、句は語(もしくは文節のようなもの)によって成り立ちます。句を構成する語列は句全体の意味になり得ますが、文の意味には足りません。これは、以下の例からも容易に肯定され得るでしょう。
(例)「(喉が渇いた状態で)水!」
上の例は、「希求」の意味を持ちますが、「水」という語に希求の意味を求める訳には行きません。例えば以下の例ではどうでしょう?
(例)「止まれ!」
この場合、「命令」の意味を持ちますが、この意味はどこから生じるのでしょうか?この場合、活用形にその意味が託されるというような説明は一応可能でしょう。では、次のような例はどうでしょうか。
(例)「止まる!」
この場合も、「命令」の意味を持ち得ます。これは先程と違い、活用形は終止形ですね。活用形に命令の意味を求めることは出来ません。
文の意味と語列の意味とはこのような簡単な例を見るだけでも違うことがわかりますね。
さて、私たちがなにかしらの「成立論」を述べようとする時には、その成立するところの対象と方法論を一致させる必要があります。
また、山田孝雄のような「句」の成立を実際に問題にしているような議論において、「これは文成立論として成り立っていない」と言うような批判は全く意味をなさないのは自明でしょう。山田の文法論において、句の成立は「統覚作用」という精神の統一作用が重要なタームになってきます。よく言われる「陳述」というのは、全ての句の成立に通じるものではなく、あくまで述体句の成立に関わるものです。
渡辺の構文論においては、「陳述」という用語は「句成立」ではなく、「文成立」に関わるテクニカルタームとして使われました。山田のいうような「句成立」は「統叙」という機能により行われると考えられました。
さて、渡辺においては、「句成立論」と「文成立論」とを一応分けたため、句と文との異質性を論じることが可能になりました。この渡辺の「陳述」という概念に様々なものが付け足され、仁田義雄などの「モダリティ論」へと繋がっていきます。「陳述論」というのは、「文成立論」のタームであるため、「モダリティ論」もまたそのような色彩を帯びています。「表現論」(もしくは、言語運用論)の次元にあると言っても誤りではないでしょう。
一方で、「モダリティ」というものを、渡辺の「陳述論」ではない方向性から規定しようとする立場も存在します。尾上などに代表される「叙法論」というものです。この時のモダリティは、非現実事態領域内の話であり、渡辺などの陳述とは一切の関わりを持ちません。
あちこちに駆け回った気がしますが、このような書き方をしているのは、同じ用語であっても様々な研究者によって、全く異なる文脈で異なるタームとして使用されていることを示したかったという理由があります。任意の術語の名前がある文法論と他の文法論とで同じであっても、その規定は異なります。そして、自らが存在する文脈に存在しない術語をなんの断りなしに使うことは当然許されません。サッカーの試合で、GKでないのに手を使うようなものです。
勢いで書いたので、誤りが沢山ありそうですね。これも雑なブログらしくて良いですね。
尾上圭介(2001)『文法と意味Ⅰ』
渡辺実(1974)『国語構文論』
仁田義雄(2005)『ある近代日本文法研究史』