メリクリ

どうもyです。

言語学フェスに申し込みました。なにをするかは未だに決まっていません。

Twitterでアンケートを取ったところ、以下のようになりました。

https://twitter.com/ysandesuka/status/1605733343026286592?t=GvzkA4ouh4nlJrzQHNi2Fg&s=19
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学史整理かぁ、という気持ち。ツイートをたまにしているのですが、意外と興味を持って貰えているんですかね。

個人的には、山田孝雄のいう「完備句」の要件とその述体の喚体の別の在り方が、その後のキーワードになるのかなと思っています。

簡易的にいうならば、山田は「完備句」の成立、その中でも「述体句」の成立において[陳述]という用語を用いていました。既に色々な人によって述べられているのですが、それは時枝誠記によって捻じ曲げられ、渡辺実において全く別の概念である陳述が定められました。

その中には、構成要素主義の影響等が色々と含まれていますが、割愛。

現代に目を向ければ、尾上圭介の論が陳述論の総括とそこからの脱出をはかるものと言えるでしょう。そして、文成立を「意味」に見るという点において構成要素主義的な文成立論から抜け出そうと試みているようにも見えます。

ただ、述体と喚体の別が果たして「句」の成立の論なのか、「文」の成立の論なのかが用語法として、時に入り交じることがあります。恐らくですが、尾上はこれらを「文」成立のあり方の差異、つまりは<形が意味を担うその担い方の差異>としての定義だと思われます。このように考えた時、尾上文法には「句論」は存在するのか、ということも興味深いですね。

最近では、大木一夫の文論もありますね。ひとつの発語内目的を担う語列が文である、という分析においてこれは山田の「文」への回帰だと思われます。すなわち、「運用」レベルの概念です。山田はこのあたりを曖昧にしている感じがあるので、後の混乱を招くのですが、ここも割愛。

さて、ここで川端善明を少し見て終わりましょう。川端の論は判断に直接対応するものが「文」であるという点において、陳述論からは離れた位置にあります。私見では、あくまで「句」の成立を、特に「完備句」の成立を中心とするとので、これをメタ理論として導入しておきながら「文」成立論を語ることは矛盾するもののように見えます。川端のいう「判断に対応する」というのは、渡辺実が論じたであろう(私見)、話し手と聞き手における言語学とは分けて考える必要があります。全ての文(句)には「主語と述語」がある、その内実を考えることによって、句論を整えることが出来るのではないかと思われるのですが、未だにまとまっていませんのでこれまで。

このようなことを考えており、もっとちゃんとまとめておきたいなと思うのですが、言語学フェスだと明らかに時間が足りないので別の機会に別の場所で。

 

参考文献をあげてなくてすみませんが、後に入れる予定です。