少し進んでめちゃくちゃ下がる

どうもyさんです。

博士後期課程進学のために某県に越してきて、早ひと月。まあまあ慣れたような慣れていないような感じです。

まあ、前のところには約6年間も居たので、そりゃひと月程度で完全に慣れるわけもないですね。

ここは、良いところです。ほんとに。人も優しいし、何より同期や先輩がそれなりにいるので、何となく心強いです。今のところは何となく。

まあただ、急に現れた人間ではあるので、馴染めるかどうか不安になることもあります。ノリを間違えていないかとか、そういう。不安になってもしゃーないんですけどね。

というような、私の今のところのこういった感情を、未来の私が見ればどう思うのかということを知りたくてブログを書くわけです。昔も今も、未来もそう。

将来への漠然とした不安が常にある。主に就職のことで、実際、アカデミアに残る必要などないのではないかと考えていたりもするけれど、かといって他の就職先としてどこを考えるのかという問題もある。

これは本当に、勢いで今在籍している大学院に進学することを決めてしまったから、というか、私は常にあまり先のことを考えすぎずに色んなことを決定して、なんとなく上手くいってきた人生だから、この先どうなるか不安。これまでどおり、何とかなるとは限らない。が、楽観主義的な考えは抜けきらない。

そういう人生だったからね。

話は変わって、悪夢をあまり見ない。幸せな夢を見て、そして現実に絶望することが多い。その意味では悪夢?まあでも、夢くらいは幸せすぎても良いのかもしれない。今が幸せでない訳では無いけど。幸せのハードルが高すぎる最近。いや、ずっとかな。

誰に見られる訳でもないブログを書き連ねる。と、言ってみるものの、アクセスを見ればたまに見られているらしい。月間100pv行くか行かないか。誰が見るんだろうか。これも見てるの?

この文章を読む時、勿論、私はその場にはいないのだけれど、しかし、今私は実際に、君に話しかけている。というような態度をとることも出来るわけで、これは恐らく書き手の強さを表す。読み手は、私の不在と私の現在を右往左往しながら読まなきゃいけない、のかもしれない。

適当言ってごめんなさい。

酒を飲んで、少しふらつく。外を歩こうか悩んで、雨だったらやめた。雨じゃなくても辞めてるかもしれない。かもしれない。便利な言葉。

便利な言葉を使い続けると、どんどん自分の考えの精密な言語化を疎かにするようになってしまう。他者の言葉に従い続けてもそう。

他者の言葉に従うことは、自らの感情をも、他者に委ねることを意味しかねない。感情をびたりと型にはめ得るような、そんな言葉は存在しない、と私は思う。だけれど、私はそういう言葉を探して、ずっとずっと言葉を紡ぐ。あまりにも安っぽい言葉しか並ばないけれど。でも、まだ見付かっていないだけ。まだ、ね。

世界に感情を委ねてはいけない。言葉は世界に依存する。が、言葉は私にも依存する。私は世界を構成すると同時に、独立する。そういう、特別な存在。感情を私のものとしなければならない。逃がしてはならない。他者に感情を任せてはならない。孤独?いや、蠱毒になりかねない世界から逃げるための策略。人類補完計画に逆らうんだよ、シンジくん。誰だお前。石田彰を連れてこい。そしたら聞いてやる。

桜が散って、葉桜を少し見た。それもそれで綺麗だった。花を見て、綺麗だと思うようになったのはいつからだろうか。まあでも、今、現に綺麗だと感じているそのことが私にとっては大事。そういう感覚を持っている、何かしら、何かしらに対しての私の何らかの感覚があることが、今は大事だと思っている。余り伝わらないかもしれないけど。

厨二病みたいなことを言ってみる。いやでもしかし、大人になるにつれての感覚として、感情の起伏が少なくなることを感じている。躁鬱の時は泣けていたから、まだ良かったのかも?いや、良くはないか。という今。

世界に感情を引っ張られないようにすると、私の感情の置き所が分からなくなってしまった。するとどうだろうか。心から、とかいうことはもしかしたら世界に依存する感覚なのかもしれないということをふと思った。何にせよ、0と1の世界ではいけない。もっとグラデーションをもって、言語もグラデーションと離散性の中で揺れ動いているように、生きた方が良いのかも。

と言ったところで、私のこれまでの人生上の実践は、少し失敗していたのかもなどと思う。誰かに言語化を任せないことまでは良かったと今でも思うけど、感覚は引っ張られても良いのかもしれない。いや、良くないのかもしれない?

論文を書いている時にも、こういう進んではゼロに、いや、むしろ後退することがある。

でもきっと、それも大事。

何の話だっけ。いや、多分、何の話をする気もなかったんだった。君はなんの話をしにきたの?とか、話しかけて終わってみる。

生涯年収減らしてみた!

どうもyさんです。生涯年収を減らしてます。

実は明日、某大学の院試の結果が出るんですよ。この数日の間気が気でなくて、ほんとにもう死ぬ。

もしも受かれば引越しの用意があり、落ちればまた色々とあります。どっちになるんだろうかと言うので早く確定してくれという気持ち。

実は、修士論文のテーマと博士論文のテーマを変えてしまおうキャンペーンをやってしまったので、おわ〜が発生してます。おわ〜です。

そろそろYouTubeの更新しないとなぁとか思いながら、一切進めてないのは、誰のせいでしょうか。そう、人類です。

私は人類の敵として、全てを素晴らしく愛そうと思います。たとえそれが悠久の時を経たちっとも可愛げのない結論だとしても。

何もできない

どうもyさんです。

学部、修士の指導教員が来年定年退職されるということで、他大学大学院の院試を受けてきました。

学部、修士の私の専門は「複合語」レベルの「形態音韻論」でして、主に「連濁現象」を取り扱っています。しかしながら、博士では、「文法論」、主に「助詞論、述語論」あたりを中心にやっていきたいと考えています。

さて、ブログということで以下のようなことを話していきましょう。何度も聞かれたことなので、私の話をするのには良い話題だと思います。

  1. 連濁現象ってまだ何か研究することあるの?
  2. なんで博論で連濁やらないの?

まず、1つ目に関して、研究することはあります。それも結構たくさん。まずこのような質問が来る前提として、連濁に関する研究が膨大にある、という事情があります。つまり、色んな人が論じているから、論じ切られているのだろうという、そういう認識があるのでしょう。

しかしながら、逆に、色々な人が論じているからこそフワフワしてしまうみたいなこともあります。まず、連濁現象には何かしらの規則性があるだろうという研究の大前提があります。としたときに、連濁現象が持つ規則性とはどのようなものか、ということが問題となるでしょう。このような問題意識のもとで、「語構成」や「アクセント」、「拍数」などと関わっていそうだということが現象上指摘されてきました。

では、それぞれはどのように連濁現象に関わるのか。それぞれはなぜ連濁現象に関わるのか。連濁現象とは何もの?

というようなことは、いまだに不明です。また、アクセントや拍数などが関わるとしたとき、いわゆる日本語の諸方言での差異は何かしらあるのでは?ということも疑問になってくるでしょう。修士論文で書きましたが、いずれどこかに論文を投稿する予定なので、採択されたらお知らせします。

2つめに関して言えば、連濁現象の整理のためには連濁現象だけを、あるいは、複合語だけを見ていてはダメだという考えからです。一つのモデルケースとして、青木博史先生の複合動詞の論があります。通時的な観点から示したものですが、動詞連用形の機能との関わりなど、非常に示唆に富みます。

連濁現象が形態構造などと関係する以上、どのような形態理論を想定するのか、ということもまた理論的な問題になるでしょう。するとやはり、他領域、特に統語論との関係などが気になってくるわけです。そういう訳で、遠回りながら、しかし、このタイミングでやる他ないということで今やるのです。

が、そのために、何もできないになっています。でも、何もできないは楽しいですよ。分かれば飽きますからね。こんな終わりで良いですか?良いですね。

 

今年は何をしよう

今年は何をしよう。

新年早々、色々なことがあった。気付かないうちに当たり前に呪われてしまっている。自分で幸せに蓋をしてしまう、そういう人生。

今年は何をしよう。

きっと新しいことを始めよう。去年は色々と成長した気がする。全国学会で発表もした。良い経験になったし、東京は人が多くて、物価が高くて、どうも馴染めない感じだった。熊本に帰った時の静けさ、こっちの方が性に合う。

忙しさと悲しさ。

院試の準備に追われている。修士論文も書き切らなきゃいけない。色んなこと、本当に色んなことがありすぎて、大変だ。もしも、遠くの大学院に受かったら、恋人とは離れ離れ。寂しい悲しい。新しさは喜びばかりではない。

これから何をしよう。

これから。きっと、色んなことがある。私には想像できないことがたくさん。美しいと思えることを増やしたい。お酒を飲まずに泣けるようになりたい。夢を見たくない。ずっと恋人の隣にいたい。これからどうしよう。

今年は何をしよう

おみくじは吉。占いなんて信じてはいないけれど。内容なんて覚えていないけれど。でも、きっと、悪口は書かれてなかった。それでいい。何かしよう。きっとね。

私の可愛い犬たち

はじめは手のひらに乗るくらいだった

小さな私が一目惚れした二人

散歩に行く時は姉弟揃って

おもちゃで遊ばずタオルで遊んだ

たくさんたくさん遊んだ

いつしか走らなくなった

 

生意気な君たち

寒い日はストーブを独占した

私の枕を奪って寝ていた

睡眠を邪魔すると唸ってきた

ご飯をあげて散歩をしているのは私なのに母にばかり懐いた

私のハムカツを盗み食いした

歯がどんどんなくなっていった

 

暖かい君たち

夏はお互いに邪魔くさそうにしていた

冬には冷たい体でズボンに入ってきた

撫でた先には君たちがいた

布団の上に重さを感じた

 

もういない黒犬へ

最後は会えなかった

会いたかった

いなくなった実感がないんだ

ずっとずっと もう何年か経ったのに

食いしん坊の君はいつしか痩せ細っていた

会いたくなかった

元気なままでいてくれると

もっと色んなことをしてあげたらと

私はまた遠くへ行く

また同じ後悔を繰り返す

 

茶犬へ

あの子が旅立って数年経った

小さい頃からずっといた君は寂しくないかと心配したけれど暴君になっていた

もう足腰も不自由で

歯も抜けて

一人では何もできない君は

それでもなお私の可愛い家族

きっと君の最後には会えない

きっと君の最後には会いたい

きっと会いに行くよ

 

夢をみる

今は亡き黒犬、君の姿を夢に見る

まだ私には信じられない

実家に帰ったら君がいるような気がする

もういないのに

ご飯を作っていたら君たちは台所を彷徨いた

落とし物をパトロールするんだ

未だにたまねぎを落としたらすぐに拾ってしまう

君たちのせいだよ

 

まだ茶犬は元気だよ

君たちが幸せだったらいいな

 

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学説をみるという話

最近まとめたので試みに。

ここでは、カジュアルに学説研究などと言っていきます。指すものとしては、研究上のサーベイなどと言われる部分に該当するようなそれです。ただし、むしろサーベイと言われる部分を中核的に見ていく研究方法はどのようなものかというのを書いていきます。

多くの場合、サーベイ部分は紙幅の関係もあって、誰が何をどのように言っているか、ということを述べるのみです。これで事足りる場合もありますが、実際は上記の観点に「なぜそのようなことを言うのか」ということを追加する必要があります。これが、学説を研究することの一歩目だと思います。

また、学説を研究するのだ、ということを中核に置く場合、できるだけ研究する側の色を薄める必要があります。このことは、研究方法によって、ある程度は達成することができると考えています。観点は以下のようになるでしょうか。

  1. 著者の言語観
  2. 影響関係
  3. 論理の内的整合性

1の観点は、2の観点と関わってくるでしょう。

少し説明を加えておくと、2は「背景」と言っても良いような観点です。時代背景や、どのような学説に影響されたのか、などの観点です。これを中核に添え、動的な記述を行えば「学説史」の研究へと繋がります。

ひとまず、学説研究は、3の観点を中核に添えるべきであると考えています。つまり、ある体系内部の論理関係を主眼とするべきです。ただし、3の観点は1の観点に支えられることも多いでしょう。ある体系内部の内的整合性の矛盾が、学説史的に解消される可能性もあります。ただし、やはり内的整合性の矛盾がなぜ生じたのか、という問いのうしろがわには、矛盾があることがあるでしょう。そして、現にある体系の在り方によって、その文法観の反映を私たちは見ることができるのです。

さて、以上のような前提を持ちながら、学説研究を行うとどのようになるのか、というケーススタディを本当は示すべきなのですが、ここはブログなのであまり長々と示すわけにはいきません。代わりに、学説研究の必要性をもう少し述べておきましょう。

まず、「なぜそのようなことを言うのか」という観点を持たなければ、安易な用語、術語の援用をもたらします。概念の定義は、体系の在り方に多く依存します。また、他の体系を有するものに対して、体系の批判なしに定義の批判のみを行うのはかなりの無理があります。このようなことからも、学説研究が必要であると言えます。

ケーススタディは、いずれ書いてファイルにしてどこかにあげるので、Twitterを見ておいてください@ysandesuka。

 

コロナにかかってしまって

どうも。Yです。

コロナにかかりました。いや、今から病院に行くので、まだ確定していない。シュレディンガーの猫状態なのですが、寝食を共にした恋人がコロナ陽性だったので、ほぼ確定です。

恋人が、8/4(金)に喉の痛みを訴え、病院で検査を受けたところコロナ陽性。同日夜に、私も喉が痛くなり、次の日に発熱。38.6度でした。

恋人は、次の日には発熱も治まっていたのですが、私はその夜から日曜日の朝にかけて39.0度以上の高熱。咳もではじめてしんどい。

その夜は眠れなかったので、朝にロキソニンを飲んで寝たところ、滝のような汗をかいて起床。同時に、36.0度まで熱が下がっていました。喉の痛みもそれなりくらい。悪寒も収まり、あとは急に出始めた鼻水だけだなと思っていたのですが、月曜日の朝4時に喉の痛みと酷い頭痛で起床。そして今。38.5度。

今から病院。シュレディンガーからの脱出。

そういえば、今年は本厄。去年は前厄。

私はあまり、というよりは、全くもって信心深い人間では無いし、占いや神頼みなどに全くの否定的な態度をとる人間なのだけれど、

【去年】

・春に躁鬱

・冬に過労で倒れる

【今年】

・五月に感染性胃腸炎

・八月に新型コロナウイルス

この状況なので、なるほど?と思えてきた。次はインフルかな。自己流の厄落としを考えておきます。

 

8/9追記

・熱は完全に下がる

・喉の痛みもほぼ無い

・咳だけが酷い。肺炎になりそう。