卒論に苦しむ人間の記事

どうも人間です。
いやぁ、卒論きついですね。
それと同時に楽しくもあります。

私の備忘録も兼ねまして少し何が苦しいのかを上げておきましょう。

①卒論に必要な知識が足りない
はい。足りません。
苦しみは全てここに集約される説ある。

理由としては、私の興味が今の研究室の先生とあっていないこと……専門的な知見からのアドバイスや方向性の指導があまり期待できない、ということですね。

勿論、研究方法等の様々な面において有難いアドバイスを頂けますし、大体は私の興味がずれていることが原因ですので、先生には一切責任がないことは言うまでもありません。

所謂、国語学を専門とされる先生なのですが、私のしたいことが生成文法の枠組みを使用した方が上手く行きそうであるということです。

まあ、これに関しては間に合うように勉強していくか、もしくは対象の変更や分析法の変更が考えられますね。どれも視野に入れながら、研究していきます。

②大学に残れる時間が短い
もうこれは私の大学の問題。
22:00には研究室から退出しなきゃいけない。
早い!!!!!!あと2時間は欲しい!!!もしくは泊まらせて!!!

って気持ち。

まあこれは仕方ない。早めに大学行ったりするしかない。早起き苦手だけど頑張るしかないですね。

正直、苦しいって書いたけどあんまり無いかもしれない。もう少しあるかも。

③6月に他大学の先生に見てもらう予定がある
これは嬉しさと緊張とが両方
楽しみではある。

そこまでにどれだけ自分の卒論の方向性と新規性が考えられているかの感じもありますね。
アドバイス頂けるのに、自分のしたいことが分からないようでは申し訳ないし、無駄でしょうから。

④継続的な研究対象になり得るか
目標としては、研究者になることです。

お前じゃ無理だよ!!!!!!!

みたいなことは別に求めてないです。なれるかなれないかは自分がどうするか次第だと思ってますので。

そのために、将来性のある研究であるかということをかなり考えています。中心的な支軸をもって、そことの関連分野の研究等が可能であるかということ。

現在の傾向を見ると、社会へ貢献するかどうかという基準がかなり世論として見えます。そんなのいつ役立つかわかんねぇだろ。などと思いはしますが、示さねばならないのは間違いないでしょう。その際、どれだけ自分の研究にその方向の肉付けができるかも考えるべきかなぁとも思っています。

戦略を考えていかなきゃなっていうやつです。

しかし、研究はやはり楽しいですね。
未だ研究もどきのようなものしか出来ていませんが、それでも楽しいです。苦しみもまた楽しみでもあります。

連濁に出会うまでの私の人生は、よく分からないものでした。「何故?」と聞けば変な目で見られ、自分でそれを分析する方法論も知らず、知恵もなかったです。

大学でどう研究すべきか。どのように物事をみるべきか。問い方はどうすべきなのか。それを学んだ(学び中ですが)ことで、やっと世界が開けてきました。

先生方や先輩、友人を見ていると私よりもよく世界を理解しています。私もその世界を見てみたい、それを可能にしてくれるのが私にとって研究だと今は思うのです。

卒論は苦しくもあり、楽しくもありますね。
頑張りましょう、一緒に。