「連濁」とは何もの?

1.はじめに

タイトルで『「陳述」とは何もの?』を想像した方。天才です。

陳述論、死ぬほど楽しいですよね。
山田孝雄時枝誠記渡辺実、と追っていくのが非常に楽しいです。
ちなみに、『「陳述」とは何もの?』は芳賀綏(1954)です。

はてさて、陳述とは何ものなのでしょうか……?

あれれー?なんだかおかしいぞ?
連濁の話でした。連濁とは何ものなのでしょうか?

最近、ブログであまり連濁に触れなくなりました。理由は、おいそれと触れられる話題ではないなぁと実感したからです。まぁ、でも、気楽に触れていきましょう。少し長めに適当に書いていこうかなと思います。
あくまでブログなので、実際に論文等を読むことをオススメします。

2.本ブログの連濁の範囲

連濁とは、「とき+とき」が「ときどき」になるような現象です。連濁が起こるには、一定の条件があり、本ブログではその条件を紹介していくことが主となります。また、連濁条件と仮定されてきたものには、多くの例外が存在し、本当に条件なんてあるの?という意見も存在しますが、ここではいったん条件がありそうかな?という仮定の下で進めていきます。
ただ、このようなことを語る前に、ところで連濁ってなんのこと指してるの?ということを示しておかなければなりません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E6%BF%81

はい。終わりです。

嘘です。下に続きます。

2.1.連濁の範囲

連濁(れんだく)とは、二つの語が結びついて一語になる(複合語)際に、後ろの語(後部要素)の語頭の清音が濁音に変化する、日本語における連音現象をいう。「ときどき」「いけばな」などがその例である。

名詞に由来する助詞にも見られる(「ぐらい」「だけ」「ばかり」)。<<(Wikipedia 「連濁」の項)

この把握で事足ります。さすが、Wikipedia先生ですね。正直、Wikipedia先生の記述でもういいんじゃない?とも思うのですが、いくつかは諸説あるものもあるので、もう少し深堀していきましょう。

次に示すように、連濁は、無声子音が母音(有声音)に挟まれた時に、隣りの音の特徴に影響される同化現象であると理解されている[要出典]。

toki + toki → tokidoki

加えて、元来日本語では閉鎖音や摩擦音では無声子音が無標であり、語頭に濁音は立たなかったことから、濁音によって語が結合していることを示す役割をもつものと考えられている。<<(Wikipedia 「連濁」の項)

ここですね。ここは、諸説あります。

[要出典]とありますが、この辺は例えば、金田一京助「國語音韻論」あたりが考えられます。

「連濁の現象も亦この類化の現象に外ならない。川はカハであるのに谷の川即ち谷川[tani-gawa]になるのは,所謂連濁であるが,なぜ此が起るかといふに,このtani-kawaといふ結合が用ゐられること度重なるにつれ,いよいよ結合が緊密になり,遂に[k]が前後に有聲音を受ける爲めに有聲化して[g] .になつて來るのであつて,無聲音が有聲音の影響 を受けて有聲音になる。即ち廣義の同化の現象である。
但し,同 一音になるのではなく有聲音といふ同類の音になるまでであるから類化なのである。」(金 田一 京助,「國語音韻論」,p154)

所謂、順行同化といわれる例です。前の母音が有声音であるから、無声阻害音が有声阻害音になるというような論理ですが、付属語や接尾辞において同化が起こらない現象が説明できないことによる批判があります。(肥爪(2003)などを参照。)

(私は、連濁を同化現象として見ない立場に共感を覚えているので、若干そちらよりの記述になってしまうということをここから先は意識しておいて下さい。)

「人→こびと・たびびと、た(完了辞)→飛んだ・研いだ」の如く、複合語や文節構成において後続語の語頭清音が濁音化すること。もともとは法則的な結合音変化としての同化現象だったはずだが、現代語ではむしろ 形態音韻論的現象である。」(『国語学大辞典』「連濁」の項)

史的連濁論の文脈でも、連濁が元々は同化現象であったとの記述が見受けられます。ただし、現代日本語の連濁は形態音韻論的現象であるとの記述されており、上記の金田一京助の記述とは異なります。

しかし、この「結合音変化としての同化現象であった」というのは果たしてどの程度根拠があるものかというのが問題となります。
高山倫明(2012)においては、文献時代当初からそのように、複合すれば必ず連濁するというような連濁はなかったと指摘されています。つまり、文献時代当初から形態音韻論的現象であったという指摘です。

連濁の始まりはどうだったのかという問いに関しては、節を変えましょう。

更にいきましょう。「飛びて>飛んで」を連濁とするのか?という問題があります。

これは、「連濁現象を法則的な同化現象と見る」のか、「連濁現象を語構成の関わる形態音韻論的現象とみる」のかによって変わってきます。勿論、これだけでは無く、前者の立場であっても、連濁とは別の現象として捉えることがある。しかし、どちらも法則的な同化現象として捉えるのに違いはないように思われます。

前者は、鼻音の後に続く音が有声化する現象として、連濁を同化現象として捉えたのと同じく、これもまた同化現象であるため、連濁の範囲内とします。
後者は、連濁は語構成の関わる形態音韻論的現象であり、前者を同化現象、もしくは、音韻的な現象であると捉え、別の現象であると捉えます。

本稿がとる立場は、「ある形態的環境にある場合、同化する」というようなことを否定しません。

さて、少し話を変えます。
金田一が言うような、「複合語が使われるほど関係が緊密になり、連濁が起こりやすくなる」というような事が有り得るのか?という話です。
これは『国語学研究事典』「連濁」の項目で、「熟合度の強いものに起こりやすい」(前田富祺執筆p68上)や、『国語学大辞典』「連濁」の項目で、「熟合的頻(慣)用度の低い語形は、当然のことながら連濁が起らない。」(奥村三雄、p925‐926)などの記述とほぼ同義のものである。

これらの発想は、連濁を同化現象であると捉えることと関係します。それは、上記の金田一の記述を見れば明確でしょう。

しかし、新造の複合語が連濁することに関しては、「熟合度」が連濁に有効であるとの立場ではどのように説明されるのでしょうか?
そもそも、「熟合が緊密になれば連濁する」という論理は、緊密であるということの客観性が問題となってくるでしょう。

さて、それでは、このブログの「連濁」の範囲と捉え方について示しておきます。

連濁は、文献時代当初から形態音韻論的現象であるという論を踏まえ、本稿では同化現象ではないと見る。つまり、形態音韻論的現象である。この事から、「熟合度」と連濁の関係を論じることはもはやない。
また、濁音の弁別的特徴は、「うむの下濁る」が生産的であった頃は、鼻音であった。

つまり、連濁は、「さと+ひと→さとびと」のような形態音韻論的現象を指し、「飛びて>飛んで」は連濁の範囲ではなく、連声濁という別の現象であると捉えます。これは、高山倫明氏や肥爪周二氏の考えに従うものです。また、弁別的特徴が鼻音であったというのは、早田輝洋(1977a)に従うものです。

また、この場合の「同化」というものは、「熟合度と関連した同化説」という含意があります。一定の形態条件のもと、同化が起こるとしても現代日本語の場合は問題ないと思います。

(肥爪(2003)と高山(2012)の連濁起源説は異なることに注意。高山(2012)は平野(1974)に依拠します。最近、平野氏の本が新しく出たので参考文献欄にurlを貼っておきます)

3.連濁規則/非連濁規則について

複合語が形成され、複合語の後部要素が清音である場合、必ず連濁が起こるかと言われれば、そうでは無いです。連濁しない例は多数存在します。

この場合、どのような場合に連濁し、どのような場合に連濁しないのか、を考えることが可能です。連濁/非連濁を見ていくと、ある傾向が観察されます。先行研究において、どのような傾向が記述され、どのように説明されてきたのかをこの節では書いていきます。



【参考文献】
金田一京助(1963)『國語音韻論』
・早田輝洋(1977)「日本語の音韻とリズム」『伝統と現代』45
・肥爪周二(2003)「清濁分化と促音・撥音」
・高山倫明(2012)『日本語音韻史の研究』