美しいものなどないけれど

逆説的に、いや、逆接的に。

美しいものを書いていると思っている訳でもないし、美しいものを書けるわけでもないのだけれど。でも、書けたものが少しでも美しければ良いなとは思う。

疲れからか願望が顔を覗かせる。この程度で疲れてしまう自分に嫌気がさすけれど、頑張っている事実は否定したくない。本当の意味で私を理解しているのは私しかいないと思うから。

他人から言われる精神論ほど嫌いなものはないのだけれど、私は精神論を信じている。というのは、私自身はどこかでむちゃくちゃに頑張らなければ成長なんてないし、死ぬ気で努力しなければ私ごときが何かを成し遂げることはないと思っているからだ。でも、他人に言うことはない。他人から言われる精神論ほど嫌なことはない。

大体の事柄は、やるかやらないかだと思っている。これもあくまで個人的に。こうやって、但し書きをしていないと曲解して難癖をつけてくる人がいるかもしれない。書いていてもそういう人はいるかもしれないし。こうやって、想像で人を恐れている。でも、今の時代は、私が生きているのは今しかないけれど、それでも現在は、こうやって言うことで私へのダメージを減らすことが出来る。

私は結構、悪どい人間で、というよりは人前では善であったほうが良いと思っている人間で、私がふざけるときには自分のことしか言っていない。それを他人に批判されることもあるけれど、正直よく分からない。私が誰かに迷惑をかけたのだろうか。もしくは、将来の私に?私が私自身のことでふざけることに対して、誰が責めることが出来るのだろう。

欠けた人間の方がどこか美しい。完璧な人間なんていないけれど、しかし、完璧に見えてしまう人間はどこかにいる。私は私の持っていない、欠けた人間が好きだ。生まれて生きて死んでいく、その過程の中で欠けた部分を誰かが補えば、それはそれで美しいかもしれない。少なくとも、私はそれが良い。

悲しさはいつも、もしくは、気付かれてしまった時には、良くないことのように言われるけれど、悲しさには悲しさなりの、意味があった。泣くことなんてないけれど、泣いたりしないけれど、それでも心の奥に広がっていく痛みは、もはや涙。

昔の歌は詩的だ。いや、私的か。少しずつ情報が入ってくる。少しずつ。それでいて、否応なしに強く。メロディがそうさせるのか、歌詞がそうさせるのかは分からないけれど。昔の歌なんて言ったけれど、私にとっての昔と人にとっての昔は違うかもしれない。私が生まれた頃の話は、もう私にとっては昔だ。

ゆっくりと壊れていく音がして、静かに沈むものが見えた。窓の外の向こう側。流れていくのは恐らく雫。素敵な声が木霊して、私の中は既に空っぽ。会いたくなるのはだからだろうか。嫌になっては思い出すこのときを。

これで。これで終わり。終わりだけれど、終われない。単にブログが終わるだけ。逆接的に。いや、逆説的に?